
私のクラスに、ネパールから来たA君という留学生がいました。成績はいつもトップクラス、漢字のテストも満点。何より、太陽のような笑顔で誰とでもすぐに仲良くなれる、クラスの人気者でした。
ただ、彼には一つだけ、困った癖がありました。いつも時間がギリギリなのです。授業開始のチャイムと同時に教室に滑り込んでくるのは日常茶飯事。時には数分遅れて、「先生、ごめんなさい!途中で友達に会って、話が盛り上がっちゃって」と、憎めない笑顔で入ってきます。
私はその度に注意するのですが、どこか強く言えない自分もいました。彼の国ネパールでは、時間を厳密に守ることよりも、目の前にいる人との関係を大切にすることのほうが重要だと聞いたことがあったからです。友人を無視して時間通りに来るほうが「冷たい」とされる文化。そんな彼にとって、日本の分刻みのスケジュールは、さぞかし窮屈だろうと同情していたのです。
しかし、そんな私の「甘さ」が、彼を深く傷つける出来事を引き起こしてしまいました。
A君には、ずっと働きたいと憧れているおしゃれなカフェがありました。「先生、あの店のコーヒーの匂いが大好きなんです。いつかあそこで働きたい!」と、目を輝かせて語っていました。
そしてついに、そのカフェのアルバイト面接のチャンスが巡ってきたのです。私は自分のことのように嬉しくて、何度も彼に念を押しました。 「A君、よかったね!でも、日本の面接では時間は絶対に守ってね。特にアルバイトは信用が第一だから」
「大丈夫です先生!絶対に遅れません!」と彼は自信満々に答えました。
面接当日。約束の時間は午前9時でした。 彼は、初めて着る慣れないスーツに身を包み、緊張した面持ちで店に向かいました。しかし、その日はあいにくの雨で、電車が少し遅れていました。
彼が店のドアを開けたのは、9時01分でした。
たったの1分。しかし、店長は彼の顔を見るなり、こう言ったそうです。 「申し訳ないけど、時間を守れない人は雇えません。面接は結構です」
彼は一言も発することができず、そのまま店を出ました。憧れの場所は、たった1分の遅刻で、永遠に閉ざされてしまったのです。
その日の午後、学校に来たA君の目は真っ赤に腫れていました。 「先生、ひどいです。電車が遅れただけなのに。たった1分ですよ?1分くらい許してくれてもいいのに……」
悔しさと悲しみで震える彼の声を聞きながら、私の胸も張り裂けそうでした。彼の気持ちは痛いほどわかります。母国では許される「誤差」が、日本では致命的な「欠陥」とみなされてしまったのですから。
しかし、ここで私が「そうだね、日本のルールは厳しすぎるね」と同調してしまっては、彼はいつまでたっても日本社会で苦労することになります。私は心を鬼にして、彼に向き合いました。
「A君、辛かったね。でもね、よく聞いてほしい。日本では『9時集合』というのは、『9時にお店に着く』という意味じゃないんだ」
彼は驚いた顔で私を見ました。
「日本の『9時』は、**『9時にはエプロンを着けて、手を洗って、「おはようございます、働きます!」と仕事をスタートできる状態』**を意味するんだよ。だから、9時ちょうどにお店に着いた時点で、もう『仕事の準備』に遅刻していることになるんだ」
私はホワイトボードに図を描いて説明しました。 「5分前、いや10分前に着いて、トイレに行って、鏡で髪を直して、深呼吸をする。そして9時ぴったりに笑顔で『お願いします!』と言う。それが、相手の仕事と時間を尊重するということなんだよ」
A君はしばらく黙っていましたが、やがて小さく頷きました。「先生、わかりました。僕は『着く時間』しか考えていませんでした。相手が待っているということを、忘れていました」
それからの彼の変化は劇的でした。まず、スマートフォンの待ち受け画面を「10分前行動!」という大きな文字に変えました。そして、家を出る時間を、それまでより30分も早く設定したのです。
1ヶ月後、彼は別の飲食店の面接に挑みました。 今度は約束の15分前に最寄り駅に到着し、近くの公園で呼吸を整え、身だしなみを確認してから、約束の5分前に店のドアを叩きました。
結果は、見事採用。 「先生!店長さんに『君は準備がいいね。きっといい仕事をしてくれるだろう』って褒められました!」 満面の笑みで報告してくれた彼の顔を見て、私はようやく肩の荷が下りた気がしました。彼は、日本の「時計」の本当の意味を理解したのです。
私たち日本人が口うるさく言う「時間を守れ」という言葉。それは、外国人にとっては時に冷たく、窮屈なルールに聞こえるかもしれません。
しかし、その厳しさの裏には、「あなたを待たせたくない」「あなたの時間を大切にしたい」という、相手への深い配慮が隠されています。
もし、あなたが日本の時間に疲れてしまったら、思い出してください。早めに約束の場所に着くことは、ただルールを守るだけではありません。それは、「私はあなたとの約束を何よりも大切に思っています」という、言葉を使わないラブレターのようなものなのです。
A君は今、新しいバイト先で、誰よりも早く店に入り、最高の笑顔でお客さんを迎えているそうです。

AIエンジニア/日本語教師