
異文化コミュニケーションの現場において、最も悲劇的な誤解は「悪意」ではなく「誠実さ」から生まれる。
日本語教師として、また文化人類学的な視点を持つ研究者として多くの多国籍学習者と接してきたが、特にナイジェリアをはじめとする西アフリカ出身者と、日本人との間に生じる「温度差」は特筆すべきものがある。
ナイジェリア人は、自らの真実性を証明するために、エネルギーを外へと放射する。一方、日本人は誠実であろうとするほど、エネルギーを内側へと収縮させる。この正反対のベクトルが衝突した際、日本側はそれを「威圧」と捉え、ナイジェリア側は相手の反応を「拒絶」あるいは「無能」と解釈する。
本稿では、この「誠実さのパラドックス」を解明するために、両国の社会構造と歴史的背景を掘り下げていく。私たちが学ぶべきは、単なるマナーの調整ではない。相手の「存在感(プレゼンス)」が依って立つ文化的なOSそのものを理解することである。
本論考では、以下の3点を中心に論じる。
ナイジェリアの都市、例えばラゴスの街角に立てば、そこが「音」に支配された空間であることに気づく。ここで語られる「大きな声」や「ダイナミックな身振り」には、日本人が想像する以上の重厚な社会的意味が込められている。
西アフリカの多くの地域は、歴史的に「口承文化」の伝統が強く、同時に予測不能な社会環境の中で自己の正当性を証明し続けてきた背景がある。このような環境において、弱々しい声で語ることは、すなわち「自信の欠如」や「嘘」を隠していると見なされかねない。
「私はここにいる。私は真実を述べている」というメッセージは、音響的な圧力(デシベル)を伴って初めて、公的な「真実」としての体裁を整えるのである。
ナイジェリアにおいて、指導者や責任ある立場にある者は、相応の「プレゼンス」を求められる。ここでのプレゼンスとは、物理的な声の大きさ、揺るぎない視線、そして空間を支配するような身体的な広がりを指す。
言語学的な観点で見れば、彼らは「何を言うか(Content)」以上に、「どのように言うか(Paralanguage)」に極めて高い比重を置いている。声の質感、ピッチの急激な変化、力強いジェスチャーは、言葉の内容を補強する「真実味の担保」なのである。
| 項目 | 西アフリカ的解釈 | 社会的機能 |
|---|---|---|
| 大きな声 | 誠実、自信、エネルギー | 信頼の構築・真実の証明 |
| 強い視線 | 正直、敬意、対等 | 嘘の排除・関係の固定 |
| 大きな身振り | 情熱、説得力、開放性 | 空間の支配・影響力の行使 |
翻って日本社会を見ると、そこには「縮みの志向(韓国の学者、李御寧氏の提唱)」とも呼ぶべき、情報を凝縮し、外部への漏出を最小限に抑える美学が浸透している。
日本は古来より、限られたリソースを均質な集団内で分配するために「和(ハーモニー)」を最優先してきた。この社会において、個の突出したエネルギー(大きな声や激しい動き)は、システムの安定を脅かす「ノイズ」として処理される。
日本人にとって、公共の場やビジネスの場で大きな声を出すことは、すなわち「理性の喪失」を意味する。感情をコントロールできない未熟な人間、あるいは他者への配慮を欠いた「暴力的な存在」として映ってしまうのである。
日本人の身体感覚は、極めて高い「境界線(パーソナルスペース)」によって守られている。禅の修行や茶道に見られるように、最小限の動きの中に深い意味を込める文化では、ダイナミックな身体表現は「過剰」であり、時に「攻撃」と受け取られる。
ナイジェリア人が熱意を持って一歩踏み出し、目を見開いて力説する時、日本人の脳内では「闘争・逃走反応(Fight or Flight)」が作動している。相手が怒っているのではなく、単に誠実であろうとしているだけだという「論理的理解」が、身体的な「恐怖」に追いつかないのである。
ナイジェリア流の「存在感」と日本的「和」の衝突。これは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているという問題ではない。それぞれの文化が、異なる生存戦略を背景に持ち合わせている結果である。
しかし、日本というフィールドで活動する以上、ナイジェリア側の「誠実さ」を日本側の「受信機」が受け取れる形式に変換する必要がある。これを私は「文化のエンコーディング(符号化)」と呼んでいる。
ナイジェリアの皆さんが持つ、その素晴らしいエネルギーを殺す必要はない。ただ、その「届け方」を調整するだけで、日本での信頼は飛躍的に高まる。
私たちは、しばしば異文化理解を「相手の国の言葉を覚えること」だと勘違いしがちである。しかし、真の理解とは、相手がどのような「音域」で世界と関わっているかを知ることにある。
ナイジェリアの皆さんの熱意は、太陽のようなエネルギーに満ちている。それは日本の社会に、新しい活気と誠実さをもたらすことができる貴重なリソースである。一方で、日本人の静寂は、相手への深い配慮と調和への祈りが込められた「優しさ」の形である。
「威圧」という言葉の裏側に隠れた「真実を伝えたい」という切実な願い。それをお互いが発見できた時、摩擦は初めて「創造的なエネルギー」へと変わる。
どちらの文化も、根源にあるのは「人間関係を良くしたい」という共通の願いである。私たちは、相手の放つ記号を額面通りに受け取るのではなく、その背後にある文化的OSを想像する知性を持つべきだ。異文化共生とは、互いの音域を尊重し合い、新しいハーモニーを模索し続ける終わりのないプロセスなのである。
あなたの熱意が、日本という地で正しく、そして美しく響き渡ることを心から願っている。